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[雑談] 藤原俊男 一言

藤原俊男 一言

マスター  さん

2016/11/08 13:23:51
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恩師、伊東清和先生。その1
藤原俊男

伊東清先生は、本紙に「元日系社会シニアボランティア 伊東清和 JICAを訪ねる  ぼくのオキナワ見聞録」と「少年兵金太の物語」を連載で長く投稿し続けた。昭和32年に旭小学校へ赴任され、翌年、私たち5年生のクラスの担任となった。
後に聞くが、問題児が居て、その生徒の面倒を見るため来られたと聞いた。その問題児が、本誌に投稿していた朝倉力弥君(朝倉工業社長)だ。彼の親が、町中の犬屋で、春の遠足の日が雨となり、腹が立って学校へ文句を言ってくる親父だった。「なぜ雨の日に遠足をはめるのか?」と。先生は「たまたま雨になっただけだ!」と言い返した。ほとんどの先生はその親父に困っていたそうだ。最後は仲良くなり、古くなった学校の応接セットを新しく寄付してくれた。先生の自宅は飯田線の鳥居駅。帰る途中、よく犬屋の親父と一杯飲んで帰ったそうだ。
 授業で印象に残るのは、突然「明日おにぎり持って来い」と言う。次の日、学校へ行くやいなや、「今から朝倉川へ行く」と。着くと1時間目から5時間目まで、時計を見ながら時間割通り授業を進める。社会科は先生の話を聞く。理科は川に入って虫や魚の名前をみんなに聞き、答える。体育は相撲を取る。なかには、大喧嘩となり、先生が仲裁することがしばしばあった。今度は音楽。先生も下手くそだったけど、みんなで校歌を歌って…、などしながら学校へ戻り、6時間目は1日を振り返って作文を必ず書かされた。
 そんな日に、みんな本音で話し合い、喧嘩もいじめもあったが、心の良いガキ大将が必ず治めた。それも先生の指導だった。とにかく生きていく事の問いを教えてくれたと今も思う。野外授業ばかりしていたためか、時の校長先生はおかんで、都会にはない澄んだ心の人たちが、助け合いながら暮らしている様子にほれ込んだと聞く。
(次回に続く)(14.3.24)


恩師、伊東先生。その2
藤原俊男

伊東清和先生は、本誌に「元日系シニアボランティア 伊東清和 JICAを訪ねる ぼくのオキナワ見聞録」と「少年兵金太の物語」を連載で長く投稿し続けた、昭和32年に豊橋市旭小学校へ赴任され、翌年、私たち5年生のクラスの担任となった。
 伊東先生は「ほうちょう(包丁)」というタイトルでノートをつくり、主にクラスの母親たちと、交換日記をしていた。私は9人兄弟の末っ子で、当日子育てに奔走し、疲れ果てて眠るおふくろをなんとか起こしては書いてもらった。その返事を必ず先生も毎日全員に書いてくれた。今日の電子メールなどない時代だった。今の親や先生が同じことができるのだろうか?
今ならどなり込んでくる親もいるかもしれない。その時代、モンスターペアレンツなんて聞いたこともなかった。
また、野外授業後の作文や、夏休みの詩や作文の宿題など多く書かされたが、学年末に我々へ返してくれなかった。なぜかと思っていたら、先生が個人別に製本して、なんと結婚式に持って来た。結婚式に呼ばれなくても、結婚するとわかったら必ず来ちゃう。もちろん、私も結婚式のときもらっている。私たちの学年だけでなく、数年間の後輩たちに、偏りなく同じようにしていったと後になって聞いた
 クラスには、朝倉力弥よりもっとも問題児がいた。その彼が成人後、施設に入られ会えなく事になった。先生は長く手紙を送り続け文通した。そこまで追っかけてでも更生を祈り、教え子を優しく見守っていく先生だった。
 一方、クラスの中には立派に人生を歩んでいった者も多くいた。医者、坊主、大企業の副社長、大病院の理事長、税理土、スナックのママさん。そして、有名大学へ行った者も多かった。しかし,中には若くして亡くなったクラスメイトもいた。その中の一人に後に朝倉工業(株)を創業した社長の朝倉力弥君もいた。彼は、還暦前に病気で亡くなってしまったが、彼の親しい中学生の同級生の多くからも、彼がいなくなって寂しいと今でも聞く。そんな彼も、本紙に投稿し続けた一人だった。
(次回に続く)(14.5.5)

恩師、伊東清和先生その3
藤原俊男

伊東清和先生は、本誌に「元日系シニアボランティア 伊東清和 JICAを訪ねる ぼくのオキナワ見聞録」と「少年兵金太の物語」を連載で長く投稿し続けた、昭和32年に豊橋市旭小学校へ赴任され、翌年、私たち5年生のクラスの担任となった。
 小学校を卒業してしまうと、普通のつき合いでは緑遠くなりがちだが、私たちが中学3年生になるまで、毎年夏、先生の家に集合して、三河川合の「県民の森」へキャンプに連れて行ってくれた。テントが足らず蚊に刺されながら、外で寝ていた者もいた。そこまでして面倒を見てくれたのは、卒業後、われらが素直に育っているか?心配だったのかもしれない。
 伊東先生は1944年「博報賞」を受賞している。「博報賞」とは1970年に設立された財団法人博報児童教育振興会が、児童教育に貢献・努力している学校、団体、個人に贈られる賞である。
 先生は農村部、へき地にも勤務しながら一貫して小・中学校の作文教育に取り組み、作文を通して学校と父母との交流をも進めるなどが認められ、個人として受賞された。なお愛知県では、2人だけが受賞。同年、静岡県掛川市にある「ねむの木学園」で有名な宮城まり子さんも、一緒に受賞している。そのためか、伊東先生は最後には出世、鳳来中学、新城八名中学の校長先生を歴任し、定年を迎えた。八名中学の運動会では、生徒だけではなく村中の人たちも入場行進に加わり、村人を含め全員を整列させ、壇上であいさつしたというユニークな話を、当時、朝倉力弥君から聞いた。
 伊東先生は、愛知学芸大学(現・愛知教育大学)を卒業。豊橋交響楽団の(故)森下元康先生や「とよはし市電を愛する会」会長の伊奈彦定先生も同大学を卒業された。特に、伊奈先生は伊東先生が昭和40年からへき地派遣教員として富山村勤務中に、富山中学の生徒たちに書かせた作文集を「とちの木の子ども」と題してまとめ、数年後出版された。なんとその本の表紙絵やカットは伊奈先生が添えられたと、最近になって伊奈先生からお聞きした。かれこれ、40年以上前からの親友と。15年ほど前、伊奈先生、伊東先生、朝倉力弥君と私の4人で牛川のすし屋で一杯飲んだ事を懐かしく思い出される。
 定年後、伊東先生は名古屋の出版社へ「編集長」として招かれる予定であった。しかし契約直前に、「けさ、社長が首をつって死んだ」と聞き、唖然(あぜん)とした。どうも、莫大な借金で倒産したとのことだった。

恩師、伊東清和先生その4
藤原俊男
伊東清和先生は、本誌に「元日系シニアボランティア 伊東清和 JICAを訪ねる ぼくのオキナワ見聞録」と「少年兵金太の物語」を連載で長く投稿し続けた、昭和32年に豊橋市旭小学校へ赴任され、翌年、私たち5年生のクラスの担任となった。
 定年後、名古屋の出版社で仕事をする予定だったが、突然の会社の倒産と社長の自殺で行き場を失ってしまった。間もなくして、旭小学校時代の教え子だった朝倉君が伊東先生に、「僕の会社に入ってくれませんか?」と言った。彼は中学生卒業後、横浜のペンキ屋で勉強し19歳で帰郷。その後塗装会社に設立した。20年ほどで、この地域でトップクラスの企業に育てた。伊東先生は、早速「朝倉工業(株)取締役経営業開発部長」として再スタートを切った。そして、勤務しながら「現国際協力・JICA日経シニアボランティア・日本語教師」の資格を取るため、勉強していった。高齢であったがゆえにつらかったそうだ。
 還暦を超えて年寄りが、体力テストもあり、大体受からない難問を2回トライ。最終的には65歳だったが、1954年に米軍統治下で沖縄県から移住した日系人の村であるボリビア、オキナワ村に起任。ボリビアでは食事に困るんだろうと思って、フリーズドライの味噌(みそ)汁を1年間分、朝倉君と一緒に送ったことがあった。先生はとても喜んでくれた。
 2年間の勤務を終え、帰国後、報告会をクラス会と兼ねて、朝倉くんの幹事で大勢出席のもと開いた。報告の中でオキナワ村では、江戸の末期か明治時代の言葉「~そうろう(候)」が出てくるような古く美しく心を込めた。日本語で子どもたちが話してた。それを聞いたとき愕(がく)然としたと。今の若者の言葉遣いの悪さ、レベルの低さに。「どうしてこうなっちゃたんだ、全く残念だ!!」と興奮しながら、話してくれた。
 伊東先生の教え子は偏差値教育ではなくて、「偏差値教育」私がつくった造語で、変わった人が多いけれど、人生の生さまざまな1年間だけでなく、卒業後も長くとことん教えてくれた。
 まとめ役の朝倉君が亡くなった後、伊東先生から「おい、藤原。おまえ今度、幹事やれよ」と言われて私たちの還暦のクラス会をやる予定が、あっという間に7年たってしまった。
 昨年の5月、私は久しぶりに鳥居駅前の伊東先生の自宅を訪ねた。その時、病がかなり進んでいると聞いた。それでも本誌向け「少年兵金太の物語」の原稿をパソコンに向かって打っていた。「クラス会をやりたいんですが」と相談したところ、「絶対に俺は出るから、いつやるか、早く決めてくれ!」と先生。「それでは、梅雨時は避けて、お盆過ぎてからにしましょう」と言い、やっと私の声掛けで、昨年8月25日、クラス会を開くことになった。私たち66歳、伊藤先生は78歳だった。
(次回に続く)(14.7.28)

恩師、伊東清和先生その5
藤原俊男

伊東清和先生は、本誌に「元日系シニアボランティア 伊東清和 JICAを訪ねる ぼくのオキナワ見聞録」と「少年兵金太の物語」を連載で長く投稿し続けた、昭和32年に豊橋市旭小学校へ赴任され、翌年、私たち5年生のクラスの担任となった。
 さぁ、いよいよ久しぶりのクラス会を企画することになった。55年前の伊東先生が担任する旭小学校4年生と5年生の合同のクラス会だ。頼りにしていた朝倉くんが亡くなってしまったため、名簿づくりに苦労した。これが最後だと思い、公認会計土の小畑耕一君とほか数人に手伝ってもらい企画した。
 私たちは6年生のなる時、向山小学校が新たにできたため、多くの友達と別れることになった。今でも「あのときは寂しかった」と言う者がいる。そんなこともあって、向山小学校、中部中学校、そして旭小学校、青陵中学校、また近隣の高校の卒業名簿を手に入れ、関係者の協力を得ながら行方を捜した。2学年で107人の同級生だったが、住所が分かったのは47年。
 そのころ伊東先生の病はかなり進んでいたと聞いていたので、奥様と連名で招待した。さて、クラス会に向けて出席者を募っていたところ、クラス会の11日前、奥様の清子
様から「ごめん。主人が亡くなりました。」と私は「ああ…もったいない、残念だ!」と昨日8月25日のクラス会には、間に合わなかったのだ。みんなと会えるはずが…。もちろんイの一番、伊奈先生に連絡した。ただ、私としては、どうしてもクラス会の前に、出席者に先生が亡くなられたことを連絡する気持ちにはなれなかった。当日、出席者は結果的に20人。全員が先生を待っていた。しかし、伊東先生の遺影を持って奥様だけが来られたとき「ええーっ、なんで…言ってくれれば…」と先生不在の最後のクラス会になってしまった。
 会が始まるや否や、先生に叱られた話、苦しかった話、楽しい話など、長い時間、思い出話や先生に対するお礼の気持を込めた話など、55年前に戻って花が咲いた。酒が入っていたこともあったせいか、数人が涙ぽろぽろこぼしていた。最後は、お互い「みんな元気で、また会おうね!」と言い合いクラス会は終わった。
 伊東先生は亡くなるまで本紙に投稿していた「少年兵金太の物語」を最後まで」書きためておられ、亡くなった後も、本紙で読み続けることができた。
(次回に続く)(14.9.8)

恩師、伊東清和先生その6
藤原俊男

伊東清和先生は、本誌に「元日系シニアボランティア 伊東清和 JICAを訪ねる ぼくのオキナワ見聞録」と「少年兵金太の物語」を連載で長く投稿し続けた、昭和32年に豊橋市旭小学校へ赴任され、翌年、私たち5年生のクラスの担任となった。
亡き先生の思い出を語り合う最後のクラス会は悲しい会だった。そのとき話の中で、私が感じたことや私の子ども教育に関する考え方について申し上げると、当時はいじめや、親が出てくる場面は見られず、一見、教室の中は荒れ放題に見えたが、けじめもあり、親も先生も生徒も、自己責任、自己管理の考え方の中で物事を進めていった。消して至れり尽くせりの教育ではなかった。当時はスマホもインターネットもない時代だったが、今のようにちょっとしたことで新聞沙汰になることは考えられなかった。
 そんな中でも多くの優秀な連中も育っていった。勉強だけでなく、いい意味、でけんかをする闘争心、また、謝ることや感謝の気持ち、思いやり、仲直りをする心を育てながら、本来、日本人としてあるべき素朴な気配りや、お互いさまや痛み分けなど、人との関わり合いなどで、将来必要な部分を、毎日実践しながら教え込まれてきたと言える。
 戦後、米国主導による教育革命が始まって間もない私たち小学5年生の頃と異なり、今の先生方に与えられた国の教育プログラムはいっそう標準化され、よいと思うことでも枠を外すことができない。もっと、先生、学校、市は、個性を持って、特徴のある教育体制
にしていくことが重要である。
 1980年代「バブリー君」と言われるバブル時代に育った世代は、今、親になっている。その子供たちは、ゆとり教育。その当時、私は母校のPTAの皆さんに向かって「なぜ過酷な教育にしないのか。子どもたちを暇にさせてはだめ」とあいさつした途端、会場はどっと笑い声に包まれた。その笑い声の意味は何だったのか。私は、子どもたち以外の者たちがゆとり欲しかったのかと疑いたくなるような政策だと思った。それが最近になって、私が言った通りに修正されてきた。子ども教育の「失われた10年」と言っても過言ではない。
 ただ、政策がどう変わろうとも、伝承されるべき家庭、学校、地域教育は、古くさい教育文化と言われようが、よいものは残していかなければならない。子ども教育が(1)現場力(2)会社力」(3)地域力(4)国力に大きく影響することは、今に始まったことではない。これからも社会人として巣立っていく者たちは、家庭、地域、社会、学校によって一般に言われている人材ではなく人財(財産となりうる人)となる子どもたちを育て上げていかなければならない。
 今の、男女合わせて同年の人口は私たちのころの半分以下。35年前に今日の人口ピラミッドは分かっていた。今、人口対策を立てたところで、とうの昔に手遅れだ。つまり、従来の2倍の根性を持つ子どもたちを育てなければ、早いうちに株式会社日本は破綻してしまう。
 最後に伊東先生は、私の今日までの考え方に大きく教育を与えてくれた先生の一人でした。ご冥福をお祈りいたします。
(おわり)(14.10.20)

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